金剛寺の抱え地蔵 春永は辞めぬの御信宣 名誉顧問に中村錦之助
足立森林公園の、和気の清麻呂が乗つかつた貧弱な猪の、その鼻ツ面に端気がたちこめて、赤い幟に青い幟、大売り出しの幟に囲まれているのが名にし負う金剛寺である。チヤチなお寺だ。北方の公民館ぐらいだ。原町の善竜寺のほうがまだましだ。御本尊の倶利迦羅不動大明王も、さぞや肩身がせまかろう。道理で清麻呂の猪が高いところで威張つているはずだ。だがね、この金剛寺今や西日本の信徒七千のメツカとして「信仰心の啓発に併せて観光の施設を構え人心の浄化と健康の道場に開放し鎮西の名刹たらん」の欲求(ごんぐ)大宝、猪よりも高く端雲が漲ぎつている。見えるものには見えるよ、見えないものには見えないよ、ソレ縁なき衆生は度し難し。このお寺、金剛寺が名にし負うのは、肩肘怒らし目玉をむいた不動さんぢやない。高さ二尺ばかりの“抱え地蔵尊”の御利益だ。赤い前垂れに涎かけ、かた通り何の変哲もないお地蔵さまだが、このチツポケなお地蔵さまが「病気縁談失せ物旅行、売り買い待人なんでもおいで、たちどころに教えてあげる。あたらなかったらお賽銭はいらないヨ」とチカチカ電波を飛ばしているのだ。吉凶判断がたちまち判る。願い事をいのつてお地蔵さんを抱えると、良ければ軽々あがるが、凶と出れば絶対あがらぬ。あたるの何の、競輪なんか遠く及ばぬ。自家用車が盗まれたので伺いをたてたら博多の西で停めておくと御信宣があつた。半信半疑でいたらなんと博多の西の国道でその自動車が故障を起しエンコして乗り捨ててあつたという話。盲腸の手術をしていいか悪いかと伺いをたてたらお地蔵さん絶対動かぬ、上らぬ。それで手術をしたら患者は死亡。こういう御利益がワンサとある。ウンとある。春永議長が不信任されたとき「春永さんは議長を辞めるでしょうか、辞めないでしょうか。辞めるのだつたら軽く上つて下さい。辞めないのだつたら重くなつて下さい」と願をかけた人があつた。二尺の地蔵、いつかな持ち上らなかつた。果せるかな春永議長、市立病院の人間ドツクに入つて斗志満々いつかな辞める気配も見せていない。アハハと笑つたら、ホントですよと、たしなめられた。二尺の石仏だ、ハカリにかけて御覧、せいぜい二瓩か三瓩位のものだろう。それがあがらぬはずはないという奴は、唯物論者のアサハカな理屈、おおかた共産党だろう。別格本山金剛寺この抱え地蔵は第一次世界大戦後の大正から昭和にかけてエラク流行つた。毎日三百人位いの参詣があつた。してみるとあの頃と神武景気の昨今は、何か社会心理に似たものがあるのだろう。
太平洋戦争がオツ始まつてこの寺はとみに荒廃、今の管主池田盛勉師が二十四年十一月に杖をとめたときは見るかげもない荒れ寺になつていた。
別格本山金剛寺管主権大僧正、池田盛勉師。権大僧正なら石橋湛山級だ。総理大臣級だ。だから偉いのだろう。そういえば湛山によく似てる。眼鏡をかけたらソツクリだろう。さて湛山和尚「私は京都本山善通寺から九州に派遣され福岡で布教していたが、知人が北九州に来いという。足立山は東山になぞらえられる名山だから将来北九州の名所にもなる。抱え地蔵もあるから興してくれというので来て見たら、こりや人間の住めるところぢゃなかつた。祈祷場や行場ではなく善通寺の九州本山として政治的にも動かなければならないので少し工合は悪いが弟子に話したら皆二の足を踏む。ぢゃあ私が開こうというので参道を作つてもらい、堂宇も手入れして布教しているうち、北九州の将来性は確かに勢いがよろしいと見た。いつとき頑張って見ようということで今日に至つている」政治的とはどういうことだろうと愚問を発したら「善通寺の教宣拡張」と名刀一閃。成程ネ。それでうなづけた。不動明王奉賛会の名誉顧問は中村錦之助だつた。政治的である。「錦ちやんの手を握れたら軽くなれ、握れなかつたら重くなれ」何はともあれこの二尺の地蔵、これが金剛寺のマスコツト人形だ。御霊験はあらたか、苦しい時の神信心。一度は来て御覧。 |